子守唄を歌う
菊丸が一生懸命あやしているが、それでも海咲の泣き声は大きくなるばかりなのを横目に、ふと越前の視線の端に映ったのは海咲の荷物。
その上に置いてあるのは、一冊の手帳。
「……子守唄?」
手帳の中に書いてある一言をそのまま口にした越前に、菊丸が眉を寄せる。
どうやら、海咲の泣き声で聞こえなかったらしい。
「え、おチビ。何か言った?」
「子守唄が、いいらしいっスよ」
越前の言葉に、菊丸はきょとんとした表情で海咲と越前を見比べた。
何かを言いたそうな菊丸の様子に、越前の中で嫌な予感が駆け巡る。それを肯定するかのように、菊丸がにっこりと笑った。
「お~チビ♪」
「イヤっス」
「俺、まだ何にも言ってない!」
用件を言う前に拒否られた事が、さすがにショックだったのか…悲しそうな表情を見せる菊丸に、越前は容赦なかった。
「どうせ、俺に歌えって言うんでしょうけど、日本の子守唄なんか知らないっス」
真っ直ぐに見つめて正論を言ってくる越前に、菊丸はあっさりと白旗を振った。ずり落ちかけた海咲を抱えなおすと、幼い時に聞いた子守唄を思い出そうと、記憶をひっくり返す。
ますます泣き声の大きくなる海咲に、焦った様子の菊丸の背中を軽く叩く越前。
「……おチビ?」
「焦らなくても、いいっスよ」
いつもの様に、勝気な飄々とした笑みを見せる越前に、菊丸の肩の力がすとんと落ちた。
その瞬間、母が繰り返し歌った子守唄が頭をよぎる。
「眠れ眠れ 母の手に」
歌い始めた菊丸の声に、一瞬海咲の泣き声が小さくなった。二人の心の中に、希望が生まれるが、すぐにまた海咲は大きな声で泣き出してしまう。
困ったように視線を合わせて二人。
「う~ん…別の子守唄かなぁ? おチビ、曲名とかそれに書いてないの?」
菊丸の言葉に、もう一度手帳を見直す。
先ほどはパッと飛び込んできた『子守唄が良い』の文字しか見ておらず、子守唄なら何でもいいと思っていたが…。
その文字の周りを注意深く見ていく越前の視線が、ある一箇所で止まった。
その言葉を見て越前は眉をひそめたが、すぐに記憶をひっくり返す。これは、自分の記憶にもあるはずだ…と。
頭に浮かんだのは最初の出だし。静かに記憶を辿る様に口を開く。
「…Hush-a-bye, baby,…」
「どーし……え? おチ…ビ?」
かすかに呟きが聞こえたと思ったら、越前が傍に寄ってきて唄を口ずさみ始めた。菊丸には、聞き覚えのない曲。
「Hush-a-bye, baby, on the tree top,
When the wind blows the cradle will rock;
When the bough breaks the cradle will fall,
Down will come baby, cradle, and all.」
ワケがわからない菊丸の腕の中で、海咲が越前に向かって手を伸ばした。
まだ泣いてはいるが、明らかに越前の歌に興味を示した海咲の姿に、菊丸は目を見開く。
そんな菊丸に、視線は向けずに越前は口を開いた。人差し指を海咲の手に近づけ、ぎゅっと握ってくる幼子に小さく笑みを見せながら。
「マザーグースの中の、Hush-a-bye,Babyって曲っス。アメリカとかイギリスの方で、ポピュラーな子守唄。すんません。コレを聴かせてるって手帳に」
「……そうなんだ? 謝んなくてもいいって。ね、もっかい歌ってよ」
「…っス」
気づかなかった事を詫びる越前ににこっと笑いかけると、菊丸は海咲を大き目の座布団に寝かせて軽く海咲をポンポンとあやしながら横で静かに目を閉じる。
そんな菊丸と海咲を挟んで座ると、海咲に人差し指を握られたまま越前は再び歌いだした。
まだ声変わりが終わっていない少年ゆえの、低く高い声。
母親特有の、包み込むような暖かさとは違ったどこか不思議な暖かさを感じさせる歌声に、菊丸は海咲を抱っこしたまま静かに瞳を閉じる。
しばらく歌い続けた越前が、ふと菊丸と海咲を見て苦笑を零した。
「何で、先輩まで寝てんのさ」
いつの間にか菊丸まで横になって寝ている姿に肩をすくめて静かに立ち上がり、奥の部屋から毛布を取ってくるとその毛布を二人にそっとかける。
先ほどの位置に座ると、何気なしに二人を見ていた越前もまた小さな欠伸を零した――――。
「リョーマさん、ただいま帰りまし…あら」
パタンとドアを開けた菜々子の目に飛び込んできたのは、スヤスヤと眠る海咲を間に挟んで川の字になって寝ている越前と菊丸の姿。
家族のようなその様子に微笑みを零して隣の部屋から大き目の毛布を持ってくると、菊丸と海咲にかかっていた毛布を退け三人に大き目の毛布をかける。
菜々子は再びその様子に微笑むと、静かに立ち上がり電気を消した。
「おやすみなさい、いい夢を」