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Act 10 *
わずかとは言い切れないほどの喧騒と、タバコと酒の混じった匂い。
「……ぅ…ん」
慣れないそれらに促されるように、瞼をピクリと動かした越前は閉じていた瞳をうっすらと開いた。
まず認識したのは、頬に当たる安っぽい黒のソファーの感触と空腹感。
そして、身体の後ろで動かない腕。
どうやら後ろ手に縛られた挙句、ソファーに寝転がされているらしい。
その原因を考えるほど、まだ意識がはっきりとしていないのだろう。
あまり深く考えずに身動きの取れないまま辺りを見渡した瞳に映ったのは、見覚えのない薄暗い部屋。
少しずつ覚醒する意識の中で、身に覚えのない今の置かれている状況に内心首を傾げるが、後頭部に走ったわずかな痛みに殴られた事と失態を思い出す。
(…………ダサ)
あまりの事実に思わず漏れる溜め息を止められない。
イヤでも想像出来るのは、菊丸から返ってくるであろう反応。
昼と夜、どちらも容易に想像出来るのが口惜しい。
『おチビーっ! だから俺があれほど言ったじゃんか! 勝手に一人で帰るから危ないメに遭うんだよ!』
『…お前な、俺の言った意味わからなかったのか? あれほど気をつけろっつったろ。連絡入れろって言った事すら忘れるくらい危機感がねぇから、こんなハメになるんだよ』
……キャンキャン喚く昼間の菊丸と、呆れたように不機嫌そうな瞳で辛辣に言って来る夜の菊丸の幻聴が、聞こえてきそうだ。
どちらになっても、うっとおしい事この上ない。
おまけにこのパターンなら、自力で逃げ出しでもしない限りは夜の菊丸になるだろう。
そうなると、うっとおしい上に悔しさでムカツクのはわかりきっている。
と、なれば選ぶ道はただ一つ。
動かしづらい身体で辺りをそっと見渡す越前。
その目に映ったのは、床に転がっている自分のテニスバッグ。
周りには飲み干した後の酒瓶類が散らばっていて。
そして、その向こう側。
越前が起きたコトにはまだ気付いていないのだろう。
ドレッドとワンレン、そして見覚えのないチンピラ風の男達5人が、酒かタバコに興じていた。
僅かに生唾を飲んだ越前は、音を立てて気づかれないよう慎重に、それでも何とか縄を解けないかと身体を捻りだす。
男達の笑い声と解けない縄。
そのどちらにも意識を集中しながら息を殺し、身体を捻るが一向に縄が解けそうな気配すらしない。
それどころか動いたせいだろう。
さらに食い込んで来る縄に眉を寄せた越前は、わずかに奥歯を噛み締めて声を殺した。
それでも何とか解こうと挑戦を繰り返す。
次第に意識が縄に集中し始め、男達への注意が薄れ始め…。
ガンッ
ソファーを蹴られた事にハッと顔をあげた先には、口端をあげたドレッドが立っていた。
「目、覚めてたのかよ」
「………アンタたち、俺に何の用?」
「けっ、このチビ…相変わらず生意気な目してやがる」
ドレッドの後ろから歩み寄ってきたワンレンの言葉に視線を向ける。
挑むような、睨み付ける瞳。
その呼び方は、あの人だけの呼び方なんだ。
他のヤツに呼ばせはしない。
あの人以外がその呼び方をするなんて、許さない。
「アンタ、同じ事言わせるくらいバカなワケ? その言い方、やめてくんない?」
こんな状況でも臆するコトなく、いや、それ以上に睨み付けるようにキツイ視線で殴られる前と全く同じセリフをワンレンに向けて口にする越前。
初めてこの二人と相対した時は初めての事ばかりで翻弄されるだけだったが、耐性がついたのだろうか?
それとも、不本意な呼び方がそこまで許せなかったのか?
どちらにしろ、小柄な越前にバカとまで言われたワンレンはカッとなったように越前へと詰め寄ると、胸倉を掴んで無理やり上半身を起こさせる。
「このクソガキ! 黙ってりゃいい気になりやがって…」
「ヤメロって。人質だろうが」
「……ちっ。一発ぐらいいいじゃねぇか」
言いながらも突き飛ばすように胸倉を離して踵を返すワンレンを睨みながら、僅かに喉の奥で咳き込みそうになるのを押さえ込む越前。
そんな越前を一瞥したドレッドは、何事もなかったかのように越前に背を向ける。
完全に二人との距離が開いたのを確認してから、越前は目を閉じてゆっくりと息を吐き出した。
強気な態度をとってはいたが、やはり気を張っていたらしい。
強張っていた身体の力が抜けるのを感じながら、先ほどのドレッドの言葉が頭をよぎる。
『人質だろうが』
……人質。
確かにそう言っていた。
誰に対する人質かなんて…想像しなくてもわかる。
「にゃろう…弱みになんかなってたまるか」
閉じていた目を開いて小さく呟いた越前は、再び何とか縄を解こうと身を捩り始めるのだった。
一体、どれほどの時間がすぎたのだろうか。
いくら挑戦しても、全く解ける気配の見せない縄に焦り始める越前。
それでも歩み寄ってきた気配に気づいた越前は、キッと睨み付けるように顔をあげる。
歩み寄ってきたのは……ドレッドの方。
「よぅ、そろそろ赤毛たちも焦ってる頃だろうよ」
「……だから、何?」
「そろそろ赤毛たちを呼び出すからな。大事な人質だからこそ、ちょっとは傷、負ってもらうぜ?」
「………」
ギリ…と越前は歯を食いしばる。
「さっきアイツを止めなくてもよかったんだけどよ。あの調子じゃ手加減出来ねぇで殺しちまいかねなかったからな。殺しちまったら、人質の意味ねぇだろ?」
ワンレンのいる方を一瞥してからニヤリと獰猛な笑みを浮かべると、ドレッドは左手で越前の胸倉を掴みあげた。
その様子に、越前は無意識に理解してしまう。
あのワンレンがカッとなりやすい単純なトコがあるのなら、今目の前にいるこの男は、全てに置いて計算高いのだろう。
どうすれば相手をより追い詰められるか。
一番効果的な方法を選び取る術を、この男は知っている。
だけど。
不意に越前は口端をあげた。
どこか自嘲気味に。
「アンタ、あの人がココに俺を助けに来るなんて、ホンキで思ってんの? 俺とあの人、別に仲がいいワケじゃないんだけど?」
その言葉に僅かに表情を動かしたドレッドだったが、すぐに笑みを深くするとグイッと顔を引き寄せる。
漂ってくるタバコの匂いに眉を寄せる越前を気にする様子もなく。
「それがホントかどうかは実際に試してみねぇと、な!」
「………っ!」
その言葉と同時に、越前は息を呑み込んだ。
いや、呑み込まされた。
越前の腹部に拳を握った右手をめり込ませたドレッドは、越前の様子にニヤリと口端をあげる。
「…げほっ、ぐ…」
そのまま掴まれていた手を離されると同時に越前は大きく咳き込んだ。
身体を折り曲げて肩で息をする姿を、余裕の混じった獰猛な笑みで見下ろしてくるドレッド。
何とか息を整えた越前が、下から睨みあげるように顔を上げたその瞬間。
バンッ
扉を蹴り開ける音に、ハッとした様に部屋中の視線が扉に集まった。
扉をくぐって来た特徴を目にすると、店内は一気に色めき立つ。
元気に跳ねた赤茶けた髪に頬の絆創膏。
頭部に巻かれたバンダナ。
遠目にも目立つピアスの数。
そして。
なぜかサラサラの茶髪に絶えない微笑。
彼らを見た瞬間、越前はただただ絶句しか出来なかった。
最初の3人はまだ納得出来ない事もない。
ドレッドやワンレンたちとは何らかの関係もあるようだから。
しかし、問題は最後の1人。
「……不二…先輩?」
呆然と微かに呟いた言葉は、ギリギリ自分の耳に届く程度の大きさ。
そこまで聞こえた筈はないのにも関わらず、タイミングよく不二がこちらを見てにっこりと微笑む姿に、わずかに眩暈さえしてしまう。
もしかして聞こえたのだろうか?
いや、あそこまで届くとは到底思えない。
一番近くにいるドレッドにさえ、多分声は届いていないのだから。
「…そのチビに何かしたのか?」
今の状況を忘れて、思わず考え込んでしまった越前を一瞥した菊丸はわずかに眉を寄せ、すぐ傍に立つドレッドへと冷たい視線を向ける。
微妙に前屈みになっている様子に、違和感でも感じたのだろう。
かけられた言葉に、やっと我に返ったドレッドはギリ…と奥歯を噛み締めた。
「お前ら、どうやってこの場所を…」
「ンなの俺が知るかよ。コイツに聞けば? それより…」
ガンッ
部屋中に鈍い音が響き渡る。
菊丸が質問の答えとは掛け離れている言葉に肩をすくめ、呆れ顔で横に立つ不二を顎で示してから、すぅ…と瞳を細くすると同時に傍の壁を蹴り上げたのだ。
その音にビクッと思わず身体をすくめたのは、不覚にも自らの思考に入り込んでしまっていた越前ただ一人。
逆に、周りには一触即発の雰囲気が立ち込める。
「そのチビに何をした?」
低く冷たい声。
不機嫌そうにドレッドへと向ける視線は、見た事もないほど冷たいのに今にも爆発しそうな何かを抱えていて。
その菊丸の様子に、ようやくドレッドは薄い笑みを口元に浮かべた。
「何って…」
「「越前!」」
そのままグイッと胸倉を掴み上げるドレッドの腕の力に、越前は無理やり立たされる。
反射的に睨み付ける越前の視線など物ともせずドレッドが不意に腕を動かしたと思った瞬間、越前はソファーに勢いよく倒れこんだ。
その瞬間、重なったのは菊丸と不二が自分の名を呼ぶ声。
無意識に手が自分の頬を押さえ、後から来た痛みに頬をこぶしで殴られたのだと気づく。
「……つっ」
思わず声が漏れた。
口の中に広がる鉄の味に、口の中が切れたのだと理解する。
それでも、今までテニスをしていればボールが当たった事くらい何度かあるのだ。
それを思えば我慢できない痛みなワケではない。
痛みを何とかやり過ごし、呼吸を整えてから顔を上げた越前の目に映ったのは。
「…よくもしてくれたね」
「お前ら…覚悟出来てんだろうな」
開眼している不二の姿と。
相手を射抜きそうな瞳でこぶしを握り締める菊丸の姿。
その後ろでバンダナとピアスもすでに臨戦態勢に入っていて。
もう止められない。
そう思わざるを得ない状況になっていた。