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Act 8
やっと自分と向き合ってきた相手。
すぐに聞きたかった事を問いただすかと思われた越前だったが、以外にもその場に下りたのは沈黙だった。
真っ直ぐに菊丸を見つめる意思の強い瞳を受けていた菊丸は、やがて訝しげにその眉を潜めた。
越前の瞳は、自分を見ているようで映していないのだ。
そう、まるで何かを探っているのか…或いは考え込むかのように――――。
「……越前?」
いつまで待っても話し始める気配を見せない様子に、痺れを切らしたのか促すように声を掛ける。
呼びかけにハッとしたように肩を揺らした越前は、改めて菊丸に視線を向けた。
いったい、どれくらい自分の思考に嵌まり込んでいたのだろう?
そんな事を一瞬頭によぎらせるが、すぐに思考を切り替えると閉ざされていた口をやっと開き始めた。
「ねぇ、何で不二先輩が救急箱の場所知ってんの?」
「………お前、一番に聞くのがそれか?」
「…別にいいじゃん」
「ま、確かにいいけどよ」
まるで肩透かしを食らったかのように呆れ声で問うた言葉は、あっさりとした後輩の口調で看破されてしまった。
肩をすくめて不承不承頷く菊丸だったが、やはり腑に落ちないのか眉を寄せている。
それでも、気を取り直して一つ息を吐いた菊丸は口を開いた。
「俺の事情をほぼ全て知ってるからだよ。俺ん家でケガの治療してもらった事も1回や2回じゃねぇからな」
「……なんか微妙」
「微妙で悪かったな。姉貴たちも不二に救急箱の場所とか教えてたみたいで、アイツは俺がケガした時も勝手にどっかから持ってきてたんだよ」
苦虫をつぶしたような表情で言い返された言葉に納得したのかしていないのか。
黙りこんだ越前が少し考えるように僅かに目線を落とす姿に、菊丸はそれ以上は告げずに相手の反応をただ待っていた。
そんな越前が身じろぎしたのは、少し時間が過ぎてから。
「……微妙だけど、とりあえず納得しとく」
「………納得しとけ」
なぜか偉そうな口調で呟くように返ってきた言葉に、菊丸は僅かに表情を引きつらせながらもそれ以上は追求しなかった。
いや、追求しない事にした。
そうしないと、延々と意味のないやり取りのみが続くような気がしたのだ。
「他にも聞きたい事、あるんだろ?」
だから、敢えて相手を促す。
あまりのんびりもしていられない。
家族は帰ってこないわけじゃないのだ。
もう暫くしたら、母親か姉たちが帰ってくるだろう。
さすがに学校の後輩がこんな時間にいる事を、説明するのも面倒くさい。
「そうっスね」
肩をすくめて同意をした越前とて、同じ事だ。
これ以上遅くなるわけにはいかない。
いくらあのチャランポランな父親といえど、心配をするだろう。
そうなってしまうと、後々面倒な事になりかねない。
「タバコ、いつから吸ってんの?」
それでも、本題に入りにくいのか、それとも思惑があるのか。
周りから攻めるように質問を口に乗せる越前の言葉に、菊丸は仕方ないとばかりに苦笑を零した。
確かに、越前が一番聞きたいであろう事に、菊丸が素直に答えるとは限らないのだから。
「中1の夏。兄貴とそのツレから教わったんだよ」
「それじゃあ、その……」
言いにくいのか、視線を彷徨わせる後輩の様子に、しゃがんだままだった腰を上げた菊丸は一旦腰を上げると、越前の真向かいになるテーブルに腰を掛けた。
そのまま片膝を立てて続く言葉を静かに待つ菊丸の耳に、視線を戻した越前の声が入ってくる。
「昼と夜の違いって、二重人格ってヤツっスか?」
「違うな」
間髪入れずに否定を口にした菊丸の言葉に、越前は驚いたように瞬きを数回繰り返す。
「俺のコレは、どっちも俺自身だ。別に演技でも二重人格とかでもねぇよ」
一瞬、菊丸の言葉の意味がわからなかった。
演技ではなくて。
二重人格でもない。
それじゃあ…。
それじゃあその違いは、何?
「……演技でもなくて二重人格でもないなら、一体その違いは何なのさ?」
思わず睨み付けるような視線で問いかける越前の言葉に、菊丸は目を閉じて肩をすくめる。
目を開いたその顔に浮かぶのは、苦笑めいた表情。
「誰だって、その場その場で性格なんか違うだろ? お前だって例外じゃないはずだぜ?」
静かに告げられた言葉。
それは、何となくわかるようで…でもはっきりとわからなくて。
そんな感情が顔に出たのだろう。
菊丸は小さく顔の角度を変えると、再び口を開いた。
「例えばな、父親と母親の前でも微妙に態度違うくね? 先公やクラスメート、部活メンバーの中でも相手相手によって変わるだろ?」
問われた言葉に思い当たる節があるのか、要領を得ないままでも無言で頷く越前。
「簡単に言っちまえば、それが大げさになったのが今の俺だ。ま、それが相手次第じゃなくて場所次第になったって感じだけどな」
軽い口調で告げてくる相手の表情は、やはり苦笑めいていて。
何かを言いたいのに、うまく言葉が見つからない。
その場にわずかに降りた沈黙は、すぐに菊丸によってかき消されていた。
「で、他に質問はあるのか?」
なければコレで話は終わりだとでも言うような口ぶりで告げられた言葉に、越前は改めて菊丸の顔を見上げる。
そこには、もう見慣れてしまった夜に見せる瞳の色。
だけど、見慣れたからだろうか?
最初は気づかなかった、その奥に隠れている何かがあるような気がして。
無言で見つめるその視線に、逆に菊丸が眉を寄せた。
「越前?」
覗き込むように屈みこんで掛けられた訝しげな声にハッとしたのか、越前はピクリと身体を揺らす。
一瞬ボーっとしていた自分に気づくと、軽く頭を振ってから、改めて真っ直ぐに菊丸に視線を向けた。
まるで挑むかのように、いつもの意志の強い眼差しを。
「まだあるっスよ。前にも一回聞いたっけ。ねぇ、何であんな事してんの?」
そう、前に部室でも聞いた言葉。
あの時は答えなんて返ってこなかった。
軽くかわされて。
追求すらタイミングで遮られた。
今回も、ちゃんとした答えなんて返ってこないのかもしれない。
それでも。
問いかけた。
「………迷惑かけないようにするっつったろ?」
「それは前に聞いた。あの時、アンタは『まだ言えない』って言ったよね? まだ言えないんスか?」
「……諦める気はないってワケね」
小さなため息とともに肩をすくめる菊丸の言葉に、無言でただ相手を見据える越前。
その姿に小さく苦笑を零すと、菊丸は視線を外して横を向いた。
別に壁や窓を見ようと思ったのではないだろう。
何かを見るように細められた瞳。
それは、今ではない、ここでもない、別のいつかを見るかのように。
「………逃げたかったんだよ」
「え…?」
ポツリと返ってきた言葉。
それは思いもしなかった一言で。
思わず問い返すように呟いてしまっていた。
だけど、再び自分の方を向いてきたその視線に、それ以上の追求の言葉を呑み込んでしまった。
どこか寂しげに浮かべられたその表情を見てしまったら、何も言えなかった。
何も言えずに落ちる沈黙の中、耳に届くのは時計の秒針を刻む音のみ。
しばらくしてから小さく息をついた菊丸は、夜に見せる表情で口端をあげて見せた。
「ま、思いのほか居心地もよかったからな」
先ほどまでの空気を取り払おうとでも言うかのように、あっさりとした口調で告げられた言葉。
その姿に視線を向けた越前は、ただ真っ直ぐに菊丸を見据える。
無言で見据えてくるその視線の居心地が悪くなったのか、眉を寄せた菊丸はテーブルから立ち上がると越前の頭を軽く叩いて立つように促した。
「とりあえず、そろそろ出るぞ?」
「……うぃーっす」
確かにこのままココにいるわけにはいかない。
促されるままに立ち上がった越前は、先を行く菊丸に続いて玄関へと足を向ける。
多分、続きは聞けないのだろう。
そんな予感が頭をよぎる。
自分の思考に入り込んでしまっていた越前は、不意に鼻をつままれて我に返った。
「おい、聞いてんのかよ?」
「……聞いてない」
「ほー、お前ってヤツはよ…」
つまんでくる手を払いながら憮然と言い返した越前の言葉に、半眼でペシッと頭を叩く菊丸。
何をするんだと言いたげに見上げて来る小柄な姿に、菊丸は胸を張って腰に手を当てるとクイッと顎を上げて見せた。
「俺の話を聞いてないお前が悪い」
どこか悪戯っぽい表情を浮かべるその姿は、まるで時折昼間に見せる、先輩風を吹かす時のようで。
軽く端をあげた口から紡がれた言葉は、『俺』の部分を『先輩』に変えてしまえば、昼間となんら変わらないように思えて。
瞬きを繰り返して目の前の人物を見つめていた越前は、不意に納得してしまった。
菊丸が言っていた。
不二も似たような事を言っていた。
『俺のコレは、どっちも俺自身だ。別に演技でも二重人格とかでもねぇよ』
『英二は英二だよ。どの英二も、間違いなく英二自身だ。深く関わったら抜けられなくなるよ?』
態度が違う。
表情が違う。
雰囲気が違う。
あげればいくらでも違うところなんか出てくるだろう。
それでも、どちらも同じ人物なのだ。
根本は……きっと変わらない。
「…い。おいこら」
再びペシンと頭を叩かれる感覚に我に返った越前は、改めて視界の焦点を菊丸にあわせた。
そのまま口から飛び出たのは、やはりナマイキルーキーと言われる所以な言葉。
「叩かなくてもいいじゃん」
「お前が話聞いてねぇからだろ?」
「……ま、いいか。で?」
「……………お前な」
全く悪びれない越前の態度にさじを投げたのか、菊丸は呆れたように呟く事でその話にケリをつけた。
「とりあえず、時間も時間だから送ってやるっつってんの」
「女じゃあるまいし、平気っス」
「何かあったらどうすんだよ」
「その時はその時」
「お前な…テニスに影響出てからじゃ遅ぇだろ?」
「アンタがそれを言えるわけ?」
「………」
「………」
応酬の後に無言で視線を絡める…いや、睨み合う二人。
時間だけがすぎる中、先に諦めて妥協したのは菊丸の方だった。
「わかった。でもな、あいつらがいるかもしれねぇから、家についたらワンギリでいいから入れて来い」
「………ヤダ」
「ヤダじゃねぇっつーの」
「……………ワカリマシタ」
絶対にそれ以上は妥協しないといった雰囲気を感じ取ったのか、越前は不承不承頷いてみせる。
確かに、菊丸の言うとおりワンレンとドレッドに再び逢うかもしれないのは、可能性として0ではない。
立場が逆なら、自分も同じ事を言うかもしれないのだから。
絶対に連絡を入れる約束をして、一人家路に向かう帰り道。
越前は不二の言葉を再び思い出していた。
『深く関わったら抜けられなくなるよ?』
昼間と夜に見せるそのギャップ。
最初はその違いにイラつくだけだったのに。
確かに抜けられないかもしれない。
昼間の表情の中に時折見つける夜の表情。
そして、夜の表情の中に見つけた、昼間と同じような仕草。
そのギャップが、今は見ていて飽きないのだ。
「………俺もまだまだだね」
無意識に浮かんだ小さな笑み。
小さな呟きは、夜空を吹く風に溶けていった。