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Act 5
「おはよう、越前くん」
「おチビ、おっはよー!」
声をかけられると同時に、すでに身体が覚えてしまった衝撃と重さが背中にのしかかる。
わずかに走った痛みに一瞬眉を寄せるが、すぐに何ともない表情を浮かべて潰れないよう踏ん張りながら顔を上げると、目に映ったのはクスクスといつもの微笑を浮かべている不二周助。
背に乗っかっているのは、言わずと知れた菊丸英二。と言うより、こんな事をするのは彼一人しかいない。
横目で背の上を見上げると、目に写ったのはいつもの昼間の顔だった。
やはり、夕べ見た表情は見間違いのように未だに感じてしまう。
だが――。
わずかに痛みが残る背中。
別に夕べ打ち付けただけなので怪我をしているワケではない。
単なる打ち身だろう。
押さえ付けるとわずかに痛む程度だ。
「……昨日、背中打ったせいで痛いんスよ。退いてもらえません?」
当事者である菊丸に向かって、いつもと同じ口調で促してみる。
どんな反応が返ってくるのだろうか…?
そんな試すような気持ちもわずかに含んで。
「背中痛いの? ダメだよー、危ない事しちゃ」
「…………」
わかっていてだろう。
あっさりと解放してから至極真面目な表情でメッとするように指を突きつける菊丸の姿に、越前が思わず『誰のせいだ』と呆れたように半眼になってしまうのは仕方ないのかもしれない。
それでも何も言わない越前の様子に、突きつけていた手を頭にポンと置いた菊丸は、明るい笑顔を向けてくる。
「で、おチビ。お返事は?」
「……は?」
「クス、僕たちは『おはよう』って声をかけたよね?」
「…あぁ、そういう意味っスか。はよっス」
間の抜けた声を上げる越前の様子に、楽しげな微笑を浮かべた不二の言葉で菊丸が何を言いたいのか察すると、越前はわずかに頭を下げる。
返ってきた挨拶に顔を見合わせて笑いあう3-6コンビの姿に、もういいかとばかりに歩き出そうとした越前だったが、頭に置かれたままの手に動けず菊丸を見上げた。
無言で仰いでくる後輩の姿に気づいているのかいないのか?
おそらく気づいているのだろう。
二人とも。
それでも二人とも動く気配は見せない。
「……走らされたくないんで行きたいんスけど」
「あ、やっと言葉に出した」
「遅いぞー」
「………………」
つまりは言葉で自己主張をするのを待っていたという事だろうか?
突っ込みたいのにどう突っ込めばいいのかわからなくなってしまった越前は、ただただ呆れた視線を二人に向けるのだった。
部活中だとわかっているのに、どうしても目が菊丸にいってしまう。
軽快な動きでボールを楽しげに追う昼間の表情の中に、夜に見せる表情のカケラを探してしまうのだ。
人懐こい瞳と冷たい瞳。
過剰なまでのスキンシップと突き放した態度。
どっちも菊丸の本当の姿なのだろうか?
それともどちらかは演技?
後、思いつくのは…多重人格とか言うヤツくらい。
結局のところ、自分ひとりであーだこーだ考えても想像の域からは出られないのだ。
何のヒントも持っていないのだから。
考えていても仕方ないとばかりに小さく息をついた越前は、ふと視線を不二へと向けた。
自他共に認める菊丸英二の親友、不二周助。
多分、あの人はちゃんと知っているのだろう。
夜の菊丸の事も、その理由も。
それはきっと、親友の位置に立てる人だから。
そうわかってはいても、何だか面白くない。
そんな感情が表情に出たのだろうか?
不二がこちらの視線に気づくと、いつもの微笑を浮かべながら歩み寄ってきた。
「越前くん、何か言いたそうだね」
あえて疑問系でなく確定系で聞いてくる辺り、不二らしい。
しかも微笑を深くしながら。
「…そうっスね。聞きたいって言ったら、教えてくれるんスか?」
「それはどうだろうね」
クスクスと笑いながら肯定も否定もしない不二。
だけど、教えてもらえるとは思わない。
真意を図ろうかというように、不二の表情をジーっと見る越前の脳裏に不意に浮かんだのは、ある一言。
『一部のヤツらを除いて、この事を誰にも話すな』
夜の菊丸と初めて話した時に言われたセリフだ。
あの時は深くは考えなかったけれど…。
多分、いや恐らく、その『一部のヤツら』の中に不二は間違いなく入っているのだろう。
何といっても、まるで釘を刺すように『忘れろ』と言ってきた相手なのだから。
「……忘れる前に絡まれたのは、不可抗力ってヤツっスよ」
自ら帽子を取って、ニッと挑戦的な笑みを浮かべて口を開いたのは越前の方。
相手の反応を試すように真っ直ぐ視線を向けたまま。
主語を抜いた越前の言葉に、不二がわずかに肩を揺らした。
スッと開眼した不二の様子に臆する事なく、不敵な笑みを崩さない越前。
わずかに視線が交わった後。
「クス…何の事かわからないな」
完璧な微笑。
感情を読もうと思っても、全くわからない…そんな微笑だった。
考えてみれば、さっきわずかに反応したのもすごい事なのかもしれない。
普段から読めない人なのだから。
それでも一つだけはわかる。
話をする気はないのだという事だけは。
「ふーん、そうっスか。ねぇ、不二先輩」
「何かな?」
知らずのうちに手に力が入りながらも、目線を外す事なく再び挑んでいく。
「不二先輩は知ってるんスよね?」
何を、とは聞かない。
わかると思っているから。
真っ直ぐに見つめてくる越前の瞳を真正面から受けて。
不二はそれに対する返答は一切口にしなかった。
ただ、目を開き。
何かを含むように小さく、ただ鮮やかに微笑うだけ。
それでやっと諦めたかのように、越前は小さく息を吐いた。
「ワカリマシタ。本人から聞き出しマス」
悔しげにわざとらしい敬語を使う越前の様子に、楽しげに笑みを深める不二。
つかみ所のない相手に、それ以上の醜態を晒すモノかと手にしていた帽子を越前はかぶりなおす。
目深にかぶった帽子で表情を隠し、軽く頭を下げると練習に戻ろうとした越前は、すぐにその足を止めた。
自分の腕にいったん向けた視線をゆっくりとあげた先には、自分の腕を掴んで微笑を浮かべる先輩の姿。
「……何スか?」
「一つだけ教えてあげるよ。どうせキミは引かないだろうしね」
「…………」
不二の言葉に露骨に越前は眉を寄せる。
当然だろう。
今までかわすだけかわしてきた不二がこんな事を言うなんて、どういう風の吹き回しなのだろうか?
それとも、何か意味があるのだろうか…?
無言で帽子の隙間から真っ直ぐに自分を見つめる瞳に、不二は口の端を上げる。
「英二は英二だよ。どの英二も、間違いなく英二自身だ。深く関わったら抜けられなくなるよ?」
意味がわからず瞬きを繰り返す越前に、手を離した不二はにっこりと笑いかける。
それ以上は何も言わないとでも言うように。
いや、まさしくその通りなのだろう。
穏やかなように見えてつかみ所のない微笑。
そこにはどこか、反論も追及も出来ない雰囲気があって…。
それが不二の意思なのだと思わざるをえない。
その不二が、なぞ賭けのような言い方とはいえ言葉にしたのは奇跡なのかもしれない。
「……どーもっス」
少し考えるようにその場にたたずんでいた越前だったが、小さく頭を下げて口にしたのは礼のような言葉。
そのままきびすを返して練習に戻ろうと足を踏み出した越前の口元には、小さく笑みが浮かんでいた。
口を割らないと決めたら、あの人は絶対に口を割らないだろう。
それでも間違いなくヒントのはずの一言。
考えてみれば、それは紛れもない収穫の一つなのだ。
何で知りたいと思うのか、そんな事はわからないけれど。
抜けられなければどうなるのか、そんな事もわからないけれど。
ただ知りたいから行動する。
練習に戻りきる前に不意に止めた足。
楽しげにプレーをしている菊丸の姿を視線に映し、越前はゲーム開始前のように勝気な笑みを浮かべていた。
知らなければ良かったと後悔するかもしれない。
だけど、そんな事はどうでもいい。
やる前から後悔するなんて馬鹿げているから。
「覚悟しといてよね」
ゲームは、始まってみないとわからない。
一人呟いた言葉は風にとけ。
とりあえずは目の前の練習に意識を切り替える越前の姿を、不二が楽しげに見やっていた。