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Act 3
朝練に遅刻すれすれで到着した越前の目に映ったのは、いつもと変わらない日常だった。
「あー、おっチビー! 遅いぞー!」
かけられた声は、聞き覚えのある明るくて少し高い――菊丸英二のいつもの声。
何が夢で何が現実なのか、わからなくなってきている越前の横まで駆け寄ってきた菊丸は、わざとらしく目の前でパタパタと手を振っていて。
無言で視線をあげると、ニッと口の端を悪戯っぽくあげたいつもと変わらない菊丸の姿。
そのまま笑みがにんまりとした形に変わると同時に、ガバッと横から抱きつかれていた。そう、いつものように――。
「へっへーん。隙ありー」
それは、全くいつもと変わらない光景。
そして越前に、夕べの事がやっぱり夢だったのかと一瞬ホンキで思わせるモノだった。
だが…。
「……夕べ俺が言ったの、忘れちゃダメだよん? おチビちゃん」
小さな声で告げられた言葉。
それにハッとしたように越前は菊丸を振り返る。
そこにあったのは、いつもと変わらぬ明るい笑みを浮かべた菊丸が、悪戯っぽく片目を瞑っている姿。
聞き間違いかと思えるほど、前から知っている菊丸の表情。
それでも、聞き間違えではないのだ。
ゆっくりとそれを認識した越前は、無意識に目に力が入り菊丸を睨みつける。
「…………わかってますよ。それよりも、離してもらえます?」
言葉に険があるのを感じてはいても、それを止められるほど越前は大人ではなかった。
理解できないから、感情の棘が抑えられない。
その様子に小さく苦笑をこぼした菊丸は、するりと手を離すとそのまま越前の手をとった。
「…ちょ……っ」
「手塚ー。俺、部室にタオル忘れたから取ってくんねー!」
「……行ってこい」
「ほいほーい」
ため息と共に得た了解に、ひらひらと手を振りながら返事をした菊丸は、そのまま越前を部室まで引っ張っていく。
いくら越前が驚こうが踏ん張ろうが、そんなモノはお構いなしだ。
身長差もあってか、越前の抵抗など全く意味がない。
越前の手を菊丸が離したのは、二人が部室に入って扉をちゃんと閉めてからだった。
「……何なんスか、一体」
離された手を無意識に撫でながら見上げた視線の先に移ったのは、やはりいつもと変わらぬ菊丸の姿。
態度も雰囲気も、何もかもが変わらない。
何も知らなければ、夕べ見たような姿など想像も疑いもしなかっただろう。
だけど…。
「ん? おチビが何か言いたそうな顔してるからさ」
あっさりと返ってきた明るい声と表情はいつもと同じだけど、会話の中身が変わってしまった。
今までのようにどうでもいい…だけど、当たり前に感じかけていた中身にはもう…ならないのかもしれない。
どう表現したらいいのかわからないほど感情が混乱しているのを自覚しながら、それでも越前は何かを読み取ろうとするように菊丸を見上げる。
あれからずっと考えて、まとまらない感情の中でも今の時点で唯一言葉になるたった一つの疑問。
それだけしか今の越前には浮かんでこなかった。
「何であんな事してるんスか?」
いつもと変わらない表情を菊丸見せるからだろうか?
わずかに気持ちが落ち着いた越前は、今の時点で言葉に出来た疑問を静かに口に乗せた。
しん…とした部室の中で、告げられた言葉の響きに小さく菊丸は苦笑をこぼす。
そのまま椅子に逆向きに座ると、目線の高さが逆になった小柄な後輩を見上げて口を開いた。
いつもの明るい表情で。
「おチビやテニス部には迷惑かけないようにするよ?」
「そんなのは当然でしょ。でも、俺が聞いてるのはそんなんじゃない」
質問に対して曖昧な言葉を返した菊丸に対して、越前は間髪入れずに反論を返した。
誰もが生意気ルーキーと認めた、意志の強い眼差しを向けて。
その視線を真正面から受け止めた菊丸が、仕方ないとでも言うように落としたのは、言葉ではなく小さなため息。
「俺の勝手だよ。いろいろあんの」
「………」
「って言っても納得はしてくんないかー」
越前の目がわずかにきつくなったのに気づいた菊丸は、おちゃらけたように笑いながら椅子から立ち上がる。
そのままロッカーからタオルを取り出す姿に、これで話は終わりとでも言われたように感じたのか?
越前が追求するように口を開きかけた時、菊丸がパッと振り返った。
「でも、まだおチビには言えないよん。だけどさ、俺は学校にいる間はいつも通りでいたいんだよね。協力してよ」
「…………」
もしもここで、協力しないと言えば…どうなるのだろうか?
そんな事を思いながらも、越前はわずかな時間の後かすかに頷いていた。
その行動は、意識してというよりも無意識に近い動作。
なぜ?なんて事は、今の越前にはわからない。
それでも、何故か頷いていた。
菊丸の顔を見ていたら、頷いてしまった。
別にいつもの菊丸の表情だから、威圧感とかがあったワケではなかったのに――。
越前が頷いたのを見ると、菊丸は満足げな笑みを浮かべて扉に足を向ける。
「おチビー、先行ってるよん」
ひらひらと手を振りながら部室から出て行く後ろ姿を言葉なく見送った越前は、閉まった後の扉をじーっと見つめていた。
もう、菊丸がコートにたどり着いたであろうほどの時間が過ぎると、小さく息をついて首を軽く振る。
首を振って、初めて自分が無意識のうちに身体に力が入っていた事に気づく。
「………まだまだだね」
肩をすくめて小さく呟いた言葉。
その言葉の響きは、どこか楽しげな雰囲気を含んでいて。
不意に口の端を引き上げた越前は、再び扉に視線を向けた。
生意気ルーキーたる所以の、勝気な瞳で。
理解なんて、今の自分には出来るはずがない。
納得なんてそれこそ論外。
そんな事はあっちだって十分わかっているはずだ。
わかっていて、それでも一応の為に言ってきたのだろう。
だけど、それを大人しく守る自分じゃないのはわかっていたのだろうか?
ワケが知りたい。
騒がしくて子供っぽくて。
異様なまでにスキンシップが好き。
飛び跳ね回りながら人をおちょくるようなテニススタイル。
それは最初にイメージを持った性格そのまま。
ムードメーカーでトラブルメーカー。
見ていて飽きはしないけど。
どちらかといえば苦手なタイプ。
だけど。
知らなかったもう一つの顔。
冷たい視線の夜の姿。
騙されていたとは思わない。
最初は正直「ふざけるな」とは思ったけど。
このまま中途半端に終わるのは癪に障るんだよね。
覚悟してよね。
「まだ言えない」って言うのならそれでもいい。
だけどいつかは吐いてもらうよ?
「……まずは桃先輩かな?」
誰もいない部室で一人。
呟いた言葉は本人にしか届かなかった。
すっかり遅れた事など気にする由もなく。
部室から出た越前は、挑戦的な笑みを浮かべてコートに向かうのだった。